勢いでブログをつぎつぎ更新したが

勢いで記事を何個かアップしたがブログもなかなか面白いかもしれぬ。

というのも、俺はアナログでも日記を書いているが、そちらのほうは事実だけ書いたら基本終わりなのだ。

事実以外に自分が思ったことはそれ専用の「自由筆記」という日記に書いているが、最近はあまり書くことがない。

「自由筆記」には基本的に悩みや愚痴・憎しみなどを書くのだが、働かずかつ人ともほとんど接しないとなるとそういういわゆるストレスがないのだ。

そもそも俺の「自由筆記」は動揺した自分の心を整理するために書いているようなもので、反面ブログは俺に限らずほとんどの人間は誰かに向けて(誰かに読んでもらうため)書くわけだ。(ブログをオフラインの日記帳のように使っている人もいるが)

具体的にその「誰か」は俺にとってはいない。確実にこのブログを見ていると思われるのは俺の彼女ぐらいだが、現状彼女に向けて発信しているわけでもない。

俺のブログはSOS信号のようなものかもしれぬ。しかし具体的に何をしてほしいかは自分でもよくわからぬ。

両親が年金生活に入り俺を養えるのももうわずかかもしれぬ。両親は具体的な収入や貯金を俺に教えたがらない。具体的に、月に生活費がいくらかかっているとか何年後にマンションのローンを払い終えてとかといった計算はしていないようだ。ただ、両親が俺を養えなくなったらなったでなんとかなるだろうし、餓死しそうになったらなんとかしないとと思い俺は動く(働く)だろうし、餓死してしまったらそれはそれで仕方がない。

そう思っているにも関わらず、「このままで本当にいいのかな」と不安になるときがある。

結局、ストレスはあまり感じないがそのかわり充実感もないからではないか。つまり、今の生活が本当に自分が望んでいる生活ではないということだろう。しかし、今の生活はかなり恵まれているし、もし無職でいてもなんとも思われない世の中であれば俺は現状に満足してしまっているだろう。だが、日本社会はまだそういう世の中ではない。働いておらずともなんとも思われない国もしくは地域が世界のどこかにはあるんだろうけれども具体的には知らない。

ただ、働く働かないに関わらずずっと同じような生活を送っていると少なくとも俺は徐々に腐っていってしまう。夢中になれるものがあった時もあるがいずれ飽きてしまった。

自分の人生を振り返って思うのは、夢中になれるものがあったというより夢中になれた時期があったという表現のほうが近い。

高校を卒業してからは純粋に夢中になれたものはほぼない

だろう。今でも夢中になることはオナニーぐらいか。

しかし、夢中になれるものがなくてもよい。というより今後純粋に夢中になる状態が来るかどうか定かでない。高校2年ぐらいまで俺はただ単純にアホだったから夢中になっていたのだ。自我の芽生えが他人よりも遅かったと言える。幼児がわけもわからず木のおもちゃなどで遊んでいるのと似た状態が長く続いていたと言える。

ネットゲームで言うクリックゲーで1年も2年もレベル上げを繰り返すなんてアホじゃないと出来ない。2年はないが俺も1年ぐらいならクリックゲーでレベル上げを繰り返していたことがある。

疲れたので自分でも何を言いたかったのかよくわからぬまま記事を終えることにする。なぜか下書き保存はしない。